歩けば尊し、我が“足”への恩 〜足の聖地「足助」を歩いて思うこと〜
文・写真/大内 征(低山トラベラー)
ふだんは自分でハンドルを握ることが多いけれど、この日の移動は新幹線だ。車窓の風景はものすごいスピードで変化していく。コンクリートで上書きされた都会、コンクリートの上書きを辛くも免れた自然……。それらが矢継ぎ早に視界へ飛び込んでくるものだから、目が右に左にと忙しい。ぼくはちょっと車窓から視線をはずし、静かにまぶたを閉じた。
むかしの人はどんなに遠くても歩いて移動したわけだから、風景の変化はもっともっとゆっくりだったと想像する。そこにコンクリートジャングルは存在しない。あるのは山、川、海、空に雲、峠に谷戸、集落や宿場町の賑わい、そして街道を行き交う人々……。
これから向かうのは山間に流れる美しい川と街道、そこに栄えた産業と文化の交錯する地、足助(あすけ)。足を助けるという漢字があてられた彼の地で、とある大切な役目を仰せつかったのだ。訪れるのはこれが初めてではないものの、その使命にいささか心が逸る。
“足を助ける”奥三河の聖地・足助八幡宮
足助は、愛知県豊田市を東西に横断する飯田街道の一区画にある宿場町だ。飯田街道は三河の海の恵みを南信州の山間へと運ぶ「塩の道」の役割を果たし、交易面でも文化面でも大きな役割を担った。塩問屋が立ち並ぶ独特の景観は雰囲気抜群で、愛知県で初めて重要伝統的建造物群保存地区となったほどである。
そんな地域の鎮守として信仰の古い足助八幡宮には、足を痛めた旅人を助けたという八幡大神の伝承をはじめ、その縁起にはいくつかの言い伝えがある。旅人や交易に携わる人々が行き交ってきた歴史が長い土地であり、「足」や「旅」への祈りの気持ちが芽生えることは自然なことだと納得する。
そんなわけで、仰せつかった大切な役目――すべてのYAMAPユーザーの「足」と「山旅」がより良いものとなるよう、この古社で祈ること――を果たすべく足助詣でに訪れた。
境内の御足宮には足形の絵馬を奉納することができる。足を使う仕事に従事する人、スポーツ選手、旅好き、足のケガの快癒、さらには世の中の平和を願う絵馬もある。受験や試験の合格祈願は、足で踏ん張ることの連想から祈願するのだろう。さまざまな祈りがこめられた絵馬に混じって、ぼくも思いを書き入れる。
祈りとは暮らしのリズムであると、そのむかし誰かが言っていたことを思い出す。まずは自分の身の回りのこと、暮らしや身心の調子を整える習慣が、願いに近づく小さな一歩になるということだ。絵馬に込めた願いに向けて、気持ちを新たに自らの足で歩んで行こうと心に誓う。
そういう前向きな気持ちになれる場所という意味でも、神社は本当にいいところだなあと、素直に思うのであった。
足助は「アス・ケ」か「アス・カ」か
ところで、足助の読み方に注目してみると、より深い地名由来につながりそうだ。たとえば「アス」とは、崖や崩落しやすい岸を意味する「坍(あず)」からきている場合がある。つまり、地形を言い表している。
地図を俯瞰してみると、香嵐渓で名高い巴川がはやい流れで飯盛山を巻くように大きく蛇行していることがわかるだろう。その先で足助川と合流し、ようやく川面はゆるやかになる。その合流点に鎮座するのが足助八幡宮なのだ。
この流れのはやい蛇行が地形を削る力となり、河岸の山肌を崩しながら今日の香嵐渓をつくり出したと想像するならば、足助の「アス」が崩れやすい地を意味する「あず」を由来とする説はあり得そうだ。おそらく「ケ」は「処(カ)」の変化だろう。とすると「あず・か」が「あす・け」へと転訛したものだと推測することができる。
ちなみに、読み方から地名由来を推測する場合「アス・カ」という説もあるらしい。これによれば、アスカは“安住の処”という意味になる。足助は安住の住処。なるほど、地名って面白い。
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そんなことを考えながら、さっそく祈りをこめたこの足で、地形や情景を楽しむべく足助の低山を歩くことにした。ここまでずっと“歩かず”に移動してきたものだから、実は足がうずうずして仕方がなかったのだ。
起点は足助八幡宮。まずは円錐形をした飯盛山(いいもりやま)から登る。登山口から10分ほどで山頂へと至る小さな山だけれど、落葉広葉樹に覆われて陽射しが入ってこないほどに自然が濃い。さすがは紅葉の名所、これは秋になったらすごくきれいだろうなと想像する。
ほどなく到達する山頂は標高251m。点在する磐座と東屋がある広い頂は休憩にちょうどいい。天から下りてきた神さまも、この磐座に座って休んだそうだ。そのときに足を向けていた方角に、いまの足助八幡宮があるという。この言い伝えによれば元々の信仰は山頂の巨石にあり、そのためこの磐座をして“元宮”と呼ぶのだそう。
山を下りたら南麓の香積寺を参拝し、川の流れに沿って続く心地よい道を歩く。はやい流れからゆるやかな流れに変化していく巴川の水面に、青い空と白い雲が照り映える。かつての旅人たちも、こうして風光明媚な足助の情景を楽しんだに違いない。
この地を代表する低山・黍生(きびゅう)の登山口からは、小一時間で標高374mの見晴らしがよい山頂に至る。案内版によれば、平安時代の終わりに足助氏の始祖となった重長が山城を築いたとある。なるほど見晴らしがいい山だから、敵の侵攻にいち早く気がつくことができたのだろう。
後世、三河の地は徳川の領土となるから、もしかしたら家康もこの低山を活用したのかもしれないと想像力が逞しい。そういえば、足助の近くには天下峯(てんがみね・360m)があるではないか。あの山は徳川氏の始祖が天下泰平を祈願した山だと伝わる。山城の多い山域であることに納得しながら、いつもの妄想ハイクを楽しむひととき。
見晴らしのよい黍生山頂を後にして足助追分に下りると、国道を伝って足助八幡宮に戻ることができる。全行程はざっと4時間足らず。余裕をみて5時間もあれば、ふたつの低山を8の字に歩き結ぶことができる。足助を訪れるならおすすめしたい、初心者でも気持ちよく歩けるコースである。
歩いていないことの不安と、歩くことの安心と
思えば、登山をはじめてから手に入れた宝物は多い。身体を動かす習慣や心を整える環境として自然はとても優れているし、他人と協力することや励まし合うこと、自分自身の内面に向き合うこと、そんな時に山歩きほど相応しい場と機会はないだろう。
コンクリートの狭間に埋もれていては目にすることのできない絶景も、山里に伝わるディープで不可思議な歴史文化も、山は興味深いことで満ちている。これらすべてが、ハイカーだけに与えられた“お楽しみ”だと思うと、ああ、山を歩くようになってよかったなあと心から思うのだ。
歩くと言えば、子どものころに“歩き方”と向き合う機会がたびたびあった。東北の出身なので、凍結した道路を転ばずに歩く技術を暮らしの中で身につけられたこと。習い事レベルとはいえ、剣道や柔道の「すり足」から重心の低い体勢で安定的に歩行するヒントを得た。不規則不安定な沢筋を歩いて釣りをしていた少年期の原体験も活きている。これら歩き方と向き合った経験は、ぼくの山歩きの礎のひとつとなっている。
一方で、歳を重ねたいまとなると足の裏に対する気配りが欠かせない。自分の身体と山との唯一の接点こそ、足の裏なのだ。極端に言えば、足の裏に頼らなければ、ぼくらは山を歩くことすらできないだろう。だから、足裏へのサポートとケアを怠らず、もっともっと歩くことを楽しみたいと日々願っている。
長らく使うことのなかった「インソール」を取り入れたのは、そんな思いがあったから。今回の足助でも、足の裏はずっとインソールに支えられていた。登山靴に足入れした瞬間のフィット感、歩きながら感じるほどよいクッション感、そのいずれも抜群に良い。厚手の靴下で調整していた頃とは比べものにならないほど、靴の中で踏ん張りが効く。足の裏が痛むことは、もうない。
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むかしの人はどんなに遠くても、ゆっくりと変化する風景を楽しみながら歩いて移動した。乗り物は便利だけれど、すべてを自分以外に委ねていることに違いはない。自らの足を頼りに歩くということは、文字通り“自分への信頼”だと、ぼくは思う。自分を信頼する行為、それが歩くということなのだろうと――。
こっそりインソールに足裏を支えてもらいながら足助詣でを果たし、これでますます歩き旅に励むことができそうだと、帰路の足取りは軽やか。歩けば尊し、健康でいてくれる我が足への恩をますます感じた足助の旅。お礼詣りに訪れるなら、秋の紅葉のころが良さそうだ。
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大内 征(おおうち せい)
低山トラベラー、山旅文筆家。歴史や文化を辿って日本各地の低山をたずね、自然の営み・人の営みに触れる歩き旅の魅力を探究。ピークハントだけではない“知的好奇心をくすぐる山旅”の楽しみ方について、文筆・写真・講演などで伝えている。 NHKラジオ深夜便「旅の達人~低い山を目指せ!」コーナー担当、LuckyFM茨城放送「LUCKY OUTDOOR STYLE~ローカルハイクを楽しもう~」番組パーソナリティ。NHKBSP「にっぽん百名山」では雲取山、王岳・鬼ヶ岳、筑波山の案内人として出演した。著書に『低山トラベル』(二見書房)シリーズ、『低山手帖』(日東書院本社)などがある。宮城県出身。 YAMAP MAGAZINEで連載中の『大内征の超個人的「どうする家康」の歩き方』が好評。